2014年5月6日火曜日

同情は、お互いの「かわいそうさ」に気づく言葉

精神科領域では、患者さんの言つている内容にこだわるのではなく、そのつらさに共感するのが

基本とされています。そしてこのときの〈共感〉のニュアンスは、〈同情〉にかなり近いもののよ

うに思えます。



ある場面で私が患者さんのつらさに対して同情するとき、たいていの場合、私は同時に自分のこ

ともかわいそうだと思つています。




たとえばある妄想にもとづいて患者さんから責められるときのことを思い浮かべると、理不尽な

怒りをふつけられることにまず不快を感じます(これは私の堪忍袋の小ささゆえ、いかんともしか

たいこと)。そして、そのあとに、〈その妄想はこの人にとつては現実なんだよなあ。曰々いやなこ

とをされてるつて思いつづけて生きるのは、本当につらいだろうなあ〉というつらさへの同情が来

て、患者さんの気持ちに寄り添うことができるのです。




このとき、私の心の声の前には、〈責められている私もつらいけど〉という前振りが隠されてい

るのです。〈同情〉は〈同じ情〉と書くだけあって、その場面でかわいそうだったり気の毒だった

りするのは、されるほうだけではありません。同情するほうもされるほうもかわいそうなのが、

〈同情〉なのでしよう。




自分_身を振り返っても、自分が打ちひしがれたり淋しい気持ちになっているときって、患者さ

んに対してこのうえもなくやさしくなれたりしませんか?




もう十年近く前になりますが、あるターミナルケアに関するシンポジウムで、それを専門とする

看護師が、こんな発言をしました。

「私は患者さんだけがかわいそうなんだとは思いません。かわいそうというならば、人間はみん

な、誰もが、私もあなたもかわいそうだと思っています」



その発言は、会場を凍らせてしまったのですが、私はものすごい感銘を受けました。



ただ当時の私は、四年になるやならずのキャリアだったので、その言葉のすごいことはわかって

も、その深いところまでを理解することはできませんでした。それでも何やらものすごい真理を言

いあてているような迫力を感じたのは確かです。




いま、あらためて私は、彼女の言葉をかみしめています。「ケアされる患者さんがかわいそう」

と思うことを恐れて同情という言葉を避けた自分って、なんて傲慢だったんでしよう。かわいそう

なのは患者さんだけではないのです。しよせんケアする側も人間で、生きることも死ぬことも自分

の思うようにはならない、かわいそうな存在なのですから。




その一方で、医療の現場のなかで患者と看護師は社会的な力関係に縛られる部分もあるから、安

易にそれを言うことが、看護師側の甘えになつてしまうおそれはありますね。そのことは十分に自

戒しなくてはいけません。また、看護師の側のかわいそうさが、人手不足とか、夜勤の回数とか、

わかりやすい問題にすり替えられるのも、本意ではない。いずれにせょ、「患者がいちばん弱者で

かわいそうなんだ」と言われれば、それに対して「私たちもかわいそう」と言い返す気はないんです。




でも、こうした「つくられた構図」に気遣うあまり、お互いの人の存在としてのかわいそうさに

気づけなくなつていること。

実はこのことがいちばんかわいそうなのかもしれません。

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